「論語(ろんご)って古くない?」「今さら読む意味あるの?」
そう思った人、正直に手を挙げてください。大丈夫です。私MaiVoiceもそうでした。
2,000年以上も前に書かれた古い言葉、しかも中国の偉い人が説教してるようなイメージ――ちょっと身構えちゃいますよね。でも、実は「論語」には、今に生きる私たちにも通じる、人間関係や生き方に役立つヒントがたくさん詰まっているんです。
このブログでは、作家・下村湖人(しもむら こじん)による「現代訳論語」を、さらにもっとやさしい言葉で説明していきます。
むずかしい表現はそのままにしません。「論語」の中にある“今にも使える考え方”を、一緒に見つけていきましょう。読んだあと、「意外とおもしろいじゃん」と思えるはずです。
この記事で紹介している下村湖人「現代訳論語」の原文は以下で読むことができます。
東洋思想への扉:「論語」から始まる学び

アジア、つまり「東洋」の文化や考え方を深く知ろうと思ったら、まず「儒教(じゅきょう)」という思想を理解することが大切です。
そして、儒教を本当に理解するには、それを教え広めた「孔子(こうし)」という人物を知る必要があります。
でも、孔子ってどんな人?何を大切にしていたの?――そんな疑問に答えてくれるのが「論語(ろんご)」という本です。
「論語」は、孔子の言葉や生き方を通して、儒教、そして東洋そのものの精神に触れることができる、まさに「最強のカギ」とも言える一冊なのです。
断片が語る人物像――“ありのままの孔子”を知るために

「論語」は、孔子の言葉やふるまいを中心に、その弟子たちの言葉も加えてまとめられた本です。
でも、この本には目次のようなはっきりした流れや、順番通りのストーリーはありません。章ごとのつながりもバラバラで、今の私たちから見ると、ちょっとごちゃごちゃしたノートの寄せ集めのように見えるかもしれません。
それでも実は、そこが「論語」のおもしろいところ。まとめた人の考えが入りすぎていない分、孔子の本当の言葉がそのまま残っている可能性が高いんです。
つまり、「論語」は読みやすくはないけれど、“ありのままの孔子”に出会える、とても貴重な記録でもあるんですね。
孔子の言葉を記録した本としては、「論語」以外にも「易経(えききょう)」の中の「十翼(じゅうよく)」という文章がよく取り上げられます。
けれど、この「十翼」については、昔から学者たちの間で「本当に孔子が書いたの?」という疑いの声が多く、はっきりとした証拠もありません。
だからこそ、今では「論語」こそが、たとえ内容が不完全な部分があっても、孔子という人物の言葉や行動を知ることができる、唯一しっかりとした資料として認められているのです。
『易経(えききょう)』は古代中国の占いや哲学をまとめた書物で、儒教の基本経典「五経」の一つです。
五経とは『易経』、『書経』、『詩経』、『礼』(儀礼・周礼・礼記)、『春秋』を指します。
『易経』では、陰と陽という2つの力の変化を通じて、自然や社会の移り変わりを読み解こうとします。
本来は占いに使われていたものですが、次第に人生や世の中を考えるための哲学的な書としても重視されるようになりました。
「論語」はどうして生まれたのか――その成立と名前の意味

「論語(ろんご)」がいつ、そして誰によってまとめられたのか――これについては、実はまだはっきりとは分かっていません。
でも、おおよそはっきりしているのは、孔子が亡くなったあと、しばらく時間がたった紀元前400年代ごろ、孔子の弟子のさらに弟子たちの手によってまとめられた、ということです。
ちなみに「論語」という名前の由来ですが、「孔子の直接の弟子たちが残した記録をもとに、それを後の人たちが意見を出し合いながら、話し合って選んでいった本」――という意味から来ていると考えられています。
つまり、「論語」は、単なる記録ではなく、弟子たちが孔子の言葉や考えを大事にしながら、話し合いを重ねて形にしていった本なんですね。
焚書を乗り越えた書――三つの「論語」の発見と再編

「論語」は、かつて中国の歴史の中で一度、完全に姿を消したことがありました。
その原因は、秦の始皇帝です。彼が中国全土を初めて統一したとき、「儒教」の考え方が、自分がめざす“絶対的な支配”に邪魔だと感じたのです。そこで、儒教をふくむたくさんの本を燃やしてしまう「焚書(ふんしょ)」という行動に出ました。
これは、20世紀にドイツのヒトラーが自分の気に入らない本を焼いたのと、似たようなやり方でした。
そのため「論語」も、他の書物といっしょに一時的に世の中から姿を消してしまいました。
でもその後、漢(かん)という新しい時代になると、「論語」は再び見つかることになります。そして発見されたのは、なんと3種類の「論語」でした。
1つ目は、斉(せい)という国で見つかったもので「斉論(せいろん)」と呼ばれました。
2つ目は、魯(ろ)という国で見つかった「魯論(ろろん)」。
3つ目は、孔子をまつるお寺「孔子廟(こうしびょう)」の壁の中にぬりこめられていたもので、これは「古論(ころん)」と呼ばれました。
この3つのバージョンは、内容に少しずつ違いがありました。そのため、それぞれを区別するためにこうした名前がつけられたのです。
「古論」と呼ばれたものには、当時の古い文字(古体文字)が使われていたことも、名前の理由のひとつです。
先ほど紹介した3つの「論語」――斉論、魯論、古論――は、見つかった当初は、それぞれそのままの形で読まれていました。
でも、後漢(ごかん)という時代になると、学者たちがこれらを比べながら、内容を整理したり、言葉の意味をわかりやすく解説したりするようになります。たとえば張侯(ちょうこう)、鄭玄(ていげん)、何晏(かあん)などがその代表的な人物です。
さらに時代が下って宋(そう)の時代になると、邢昺(けいへい)という学者が、それまでの研究をもとにして『論語註疏(ろんごちゅうそ)』という注釈書をまとめました。
また同じ宋の時代に、儒教の思想を大きくまとめたことで知られる朱熹(しゅき)という人物が登場します。彼は「大学」「中庸」「論語」「孟子」という4つの本をひとつにまとめ、『四書集註(ししょしっちゅう)』という注釈書を作りました。
これ以降、朱熹より前の注釈を「古註(こちゅう)」、朱熹による注釈を「新註(しんちゅう)」と呼ぶようになりました。
そして現代では、この朱熹の「新註」による『論語』が、もっとも広く読まれているスタンダードなバージョンとなっています。
ちなみにこの現代訳論語も、基本的には朱熹の「新註」をもとにして、必要に応じて「古註」など他の解釈も参考にしています。
忘れられた論語・・・ それでも残る“しめり気”

「論語」が日本にやってきたのは、かなり昔――応神天皇(おうじんてんのう)の16年、つまり西暦400年ごろのことです。
でも、それが実際に本として出版されて世の中に広まったのは、なんとそれから約1000年もたった後、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の時代、元亨2年(げんこうにねん)のことでした。
その後、「論語」は、次々と日本に伝わってきた他の儒教の本とともに、まずは天皇や貴族たちの考え方や行動に大きな影響を与えました。やがて武士の世界にも広がっていきます。
そして明治維新が起こるまでの約1500年間、儒教は仏教とならんで、日本人の暮らしの中でとても大切な考え方となりました。ちなみに、仏教が日本に入ってきたのは儒教より200年ほど遅かったんです。
中でも「論語」は、身分の高い人だけでなく、文字が読めるたくさんの人々に親しまれました。江戸時代のころには、文字が読めない人の家庭にまでその考え方が広がっていて、「論語」を抜きにしては、当時の日本人の道徳や生き方は語れない――そんなふうに思われていたほどです。
1500年ものあいだ、日本の社会に深く根づいてきた儒教や「論語」ですが、たった100年もたたないうちに、その存在感がすっかり消えかけてしまいました。
こうした急激な変化――なぜそんなに一気に忘れられてしまったのか?という理由については、ここではあえて詳しくは触れません。
ただ、はっきり言えるのは、いいことか悪いことかは別として、「儒教が急激に退いていった」というのはまぎれもない現実だ、ということです。
これほどまでに日本の社会に大きな影響を与えてきた儒教や「論語」ですが、その力は明治維新のあと、急激に弱まっていきました。
その理由は、明治時代に入って、西洋の文化や考え方が日本に一気に入ってきたからです。それにともなって、儒教は次第に古くさいものと見なされるようになり、特に若い世代からは「時代遅れ」として遠ざけられました。
やがて、「そんなのもういらない」とバカにされるようになり、最終的には人々の記憶からも忘れられてしまいました。
今では、たとえ高い教育を受けた人であっても、「四書(ししょ)」「五経(ごきょう)」といった儒教の基本が何なのかさえ知らない人が多くなっています。
「論語」にしても、名前はなんとなく知っているけれど、「中身を読んでみたい」と思う人はほとんどいない――それが今の現実です。
でも、この「儒教が忘れられた」という現実を受け止めるとき、ひとつ大事なことを忘れてはいけません。
それは――「儒教がすっかり消えたように見えるのは、あくまで人々の“意識の表面”の話であって、実際の生活の中まで完全に消えてしまったわけではない」ということです。
もちろん、心の持ち方や価値観が変われば、生活のしかたにも影響が出るのはあたりまえです。明治時代以降、日本人の暮らしの中から儒教の考え方がだいぶ薄れていったのも事実です。
でも、それは表面上の話であって、実際には、儒教の考え方――たとえば「目上を敬う」「親を大切にする」「礼儀を守る」といった心は、まだ生活の土台にしっかりと残っているようにも見えるのです。
たとえるなら、見た目には乾いているように見える地面にも、水分(=儒教の考え方)はまだしみこんでいて、人々の暮らしの根っこをうるおし続けている。そんなイメージです。
その水分(しめり気)は、これからもっと目に見えなくなっていくかもしれません。でも、簡単には消えてしまわないのではないか――そんな気配もあるのです。
この事実――つまり、儒教の考え方がまだ私たちの暮らしの根っこに残っている、ということをしっかり意識することは、私たち日本人にとってとても大切なことです。
なぜなら、それをきっかけにして、「儒教の教えの中でも、せめて“論語”だけでももう一度ちゃんと学ぶべきじゃないか」と、多くの人が感じるようになるかもしれないからです。

私は、べつに「儒教をもう一度流行らせよう」と言いたいわけではありません。
でも、良いところも悪いところもふくめて、儒教の考え方が今でも私たちの生活に影響を与えているなら、それをしっかり学んで、考えてみることはとても意味のあることだと思っています。
だからこそ、「論語」くらいは、もっと多くの人に読まれていい本だと、私は強く思うのです。
「道徳書」ではない「論語」――政治思想としての側面
「論語」を読むときに、私たちが忘れてはいけない大事なポイントがあります。
それは、「論語」はただの“心の教え”や“道徳の本”ではなく、同時に“政治の本”でもある、ということです。
たとえばキリスト教や仏教の教えでは、人間の幸せや社会の秩序(ルール)を「人の心の中」に求めていて、政治のことにはあまり関わろうとしません。むしろ、「政治とは少し距離をとって生きよう」という考え方をすることさえあります。
でも「論語」はちがいます。
「論語」の中では、「聖人(せいじん)」「仁者(じんしゃ)」「知者(ちしゃ)」「君子(くんし)」などの言葉を使って、理想の人のあり方が何度も語られます。
それらはもちろん、「心がすぐれていて、道徳的に立派な人」という意味ですが、それだけではありません。「論語」では、そういうすぐれた人は、同時に「政治をまかせられる人」「社会を正しく導ける人」でもあるとされているのです。
とはいえ、「道徳を高めるのは、権力を手に入れるためだ」と言っているわけではありません。孔子の教えでは、リーダーの地位につけるかどうかは「天命(てんめい)」――つまり運命や天の意志――によって決まると考えられています。
でも、「天命」は、ちゃんと徳(とく)を積んだ人(良い行いを重ねた人)にだけ与えられるべきだし、それを受け取っても恥ずかしくないような人間になる努力をしなければならない。これが「論語」の中に一貫して流れている考え方なんです。
だからこそ、「論語」は心の教えであると同時に、はっきりと“政治の書”でもあります。そのことを忘れて読んでしまうと、「論語」の本当の意味を見失ってしまうのです。

孔子が示す、理想社会への現実的アプローチ
「論語」が“政治の書”である、ということには、もうひとつ大切な意味があります。
それは、「論語」が、死んだあとの世界(=未来の世)や神さまの教えを中心にしている本ではなく、今この現実の世界、そして“人間がどう生きるか”を考えるための本だということです。
つまり、「論語」は“精神の本”であるという点では、仏教のお経やキリスト教のバイブルと似ている部分もありますが、目指しているところがまったく違うのです。
仏教やキリスト教が「心の救い」や「あの世の幸せ」を重視しているのに対して、「論語」はあくまで「今をどう生きるか」「人としてどう社会に関わるか」を重視しています。
そしてそれは、孔子という人物そのものの生き方や、人間としてどう徳を磨いてきたか――という点にもはっきりと表れています。
昔から「聖人」と呼ばれてきた人たちの中で、孔子ほど“現実的”で“地に足のついた人”はいないかもしれません。
彼の人生には、不思議な出来事や奇跡のような話がほとんど登場しません。そして、いきなり何かをひらめいて急にすごい人になった、というような「神の啓示(てんけい)」や「霊感(れいかん)」といったドラマチックな瞬間もありませんでした。
孔子は、自分が生きているこの現実の社会の中で、毎日の生活を少しずつ丁寧に積み重ねて、自分自身を磨き続けていったのです。
一歩ずつ努力を重ね、自分の理想を広げていき、そして「人間の力だけで、ちゃんと理想の社会はつくれるんだ」と証明しようとしたのが、孔子という人物なのです。
孔子にも、「天」という考え方がありました。彼は“天”――つまり、天の上にいる偉大な存在――に対して、深く敬う気持ちを持っていたのです。だから、まったく宗教的なものがなかったわけではありません。
でも、孔子が信じていた“天”は、たとえばキリスト教の神さまのように、「すべての人を同じように愛し、救ってくれる力」ではありませんでした。
むしろ“天”とは、人それぞれの立場や能力、努力のあとをじっと見ていて、その人にふさわしい運命や役割(=天命)を決めてくれる、そんな自然の法則のような存在だったのです。
だから孔子が「天命を知る」と言ったとき、それは「何か神秘的な力で教えを授けられた」という意味ではなく、「自分自身の道徳心を鍛えていった中で得た確信」――つまり「自信」だったのです。
孔子は、“天”について語るときでさえも、空ばかりを見ていたわけではありません。彼の目はいつも地上を見つめていました。そして彼の心はいつも、「人間が自分の力で社会をよくしていくこと」に向いていたのです。言いかえれば、孔子は「現実の政治や社会の理想」を目指して生きていた人でした。
孔子の学びのスタイルは「述べて作らず」という言葉にあらわれています。
これは、「自分で新しい教えを勝手に作り出すのではなく、昔の立派な人の考えをきちんと受けついでいく」という意味です。
ここでいう「古聖人(こせいじん)」とは、孔子にとって、空想の存在ではありません。
たとえば『大学』にあるような、「明徳を明らかにした人」――つまり、自分を磨き、家庭をととのえ、国をおさめ、世界に平和をもたらした、理想的なリーダーのことです。
もちろん、そんな人物が本当に昔にいたのかは、少し疑わしいかもしれません。むしろ、孔子自身が「こうあるべきだ」と考えながら作り上げた“理想の人”だった可能性もあります。
でも、孔子本人は、その理想の人物を実在の人として信じていたのです。
こうして見ていくと、孔子の考え方がいかに「現実を見すえたもの」だったかがよくわかります。
彼にとって、「理想の社会」は、夢のような話ではなく、「人間の努力しだいで実現できるもの」でした。
そしてその証拠として、歴史の中にいる“聖人たち”――つまり、すばらしい政治を行ったリーダーたち――の存在を見ていたのです。

孔子の怒りと悲しみが生んだ言葉たち――「論語」の真の意味とは
「論語」を読むときに、もうひとつ大切なポイントがあります。
それは――「論語」が書かれた当時の時代背景を、ある程度知っておくことです。
というのも、「論語」はただの心の教えや人生のアドバイスではなく、“政治にも深く関わる本”だからです。
たとえば仏教のお経やキリスト教のバイブルは、政治から少し距離を置いた視点で書かれている部分が多いので、時代背景を知らなくてもある程度は読めます。
でも「論語」は、当時の社会のしくみや政治のあり方が内容に深く関係しているので、それを知らずに読むと、本当の意味がわかりにくくなってしまうことがあります。
そこでここからは、「論語」が生まれた時代について、簡単に説明しておきたいと思います。
孔子は、西暦の前552年に生まれ、前479年に74歳で亡くなりました。
彼が生きたのは、中国の歴史で「春秋時代(しゅんじゅうじだい)」と呼ばれる時代の終わりごろです。
この春秋時代は、それまで続いていた「夏(か)」「殷(いん)」「周(しゅう)」という三つの王朝のうち、最後の「周王朝(しゅうおうちょう)」の力がすっかり弱くなってしまった時代です。
本来なら、中国は一人の“王”を中心にまとまっているはずでしたが、その王の力がなくなったことで、まわりのいくつもの国――「諸侯(しょこう)」と呼ばれる小国のリーダーたち――が、誰が一番強いかを争うようになっていきました。
しかも、その諸侯たちの国内でも、内部での争いや反乱がたびたび起きていて、国の中も外もバラバラになっていました。
こうして政治の力はしだいに下の階級へと移っていき、世の中はほとんど“ルールがない混乱状態”になっていたのです。
周(しゅう)王朝の時代の政治のしくみは、いわゆる「封建制度(ほうけんせいど)」と呼ばれるものでした。
これは、王さま(=天子てんし)の下に、たくさんの「諸侯(しょこう)」と呼ばれる地方のリーダーたちがいて、それぞれが自分の土地を治めるという仕組みです。
でも、この時代の封建制度は、ただの上下関係というより、もっと深い“家族のようなつながり”がベースになっていました。
多くの有力な諸侯は、王さまと同じ家系(血縁)に属していて、同じ祖先をまつる「宗廟(そうびょう)」というお墓のような場所を持っていました。そして、一緒に祖先をまつる「祭祀(さいし)」を通じて、心のつながりを保っていたのです。
さらには、血のつながりがない他の国の人たちとも、土地の神さまや作物の神さま(社稷しゃしょく)をまつる儀式を通して、関係を広げていきました。
こうして、周の国は単なる封建国家というより、「祭祀と政治がひとつになった宗族国家(=家族的な国家)」だったと言えます。
この仕組みの中では、天子・諸侯・卿(けい)・大夫(たいふ)・士(し)・庶民(しょみん)といったように、身分がきびしく決められていました。
また、お祭りのしかたや礼儀作法(れいぎさほう)なども、身分に応じてルールがあり、それを守ることが「秩序と道義=正しい社会の基盤」だと考えられていたのです。
だからこそ、そのルールを破ることは「社会全体のバランスをくずす大きな悪(あく)」とされていたのでした。
孔子は、さきほど説明したような「宗族(そうぞく)」を中心とした周(しゅう)の国家体制の中で生まれ育ちました。
そして彼は、このしくみに対して何か疑いや反発を持つことはありませんでした。むしろ、「この仕組みこそが正しい」と強く信じていたのです。
とくに孔子が尊敬していたのが、「周公(しゅうこう)」という人物です。周公は、周の王様である武王(ぶおう)を助けて、この政治制度の土台を作った人で、孔子にとっては「古聖人(こせいじん)」――つまり、昔の理想のリーダーの一人でした。
さらに、孔子が生まれた場所――現在の中国・山東省にあった「魯(ろ)」という国――は、その周公の子孫が治めていた国でした。そこには、周公をまつった宗廟もあり、まさに「周の政治と道徳の中心地」といえる場所だったのです。
だから孔子は、周の制度に疑いを持つどころか、「これをもっとよく学びたい!」と強く願い、それを自分の誇りとして研究に打ちこんでいきました。
「論語」の中にある、「十有五にして学に志す(十五歳で学ぶことを志した)」という言葉は、まさに少年時代の孔子が、こうした背景の中で政治や礼儀、道徳について学び続けたことを表しているのです。
こんなふうに、周の政治制度を心から大切に思っていた孔子にとって、その理想がくずれていく春秋時代の末期の現実は、ものすごくつらいものでした。
当時の中国では、国を治めるべき諸侯や役人たちの間で、「下剋上(げこくじょう)」(=目下の者が目上の者に反抗して地位をうばうこと)が次々に起こり、本来のルールを無視して上の立場に立とうとする人(僣上:せんじょう)まで現れました。
また、政治はどんどん権力争いや自分の利益だけを考えた取引に変わり、あちこちで戦争まで起こっていたのです。

そんな乱れた世の中に対して、孔子は深い「怒り」と「悲しみ」を感じました。
そしてその思いが、彼の学問への情熱をますます高め、教育にも力を入れるきっかけとなりました。
さらには、「自分の理想を実現したい」という強い願いが、彼をさまざまな国へと旅立たせ――政治の世界にかかわろうとする行動の原動力にもなっていったのです。
実際、「論語」の中には、そんな孔子の怒りや嘆きが感じられる言葉があちこちに見られます。
いや、見方によっては――
「論語」に書かれている言葉のすべてが、理想だった“周の政治や道徳”をもう一度取り戻すための言葉だったとも言えるのかもしれません。
だからこそ、「論語」を読むときには、とても大切な二つのことを心にとめておく必要があるのです。
「論語」を読むときに気をつけなければいけない大事なポイントが、ふたつあります。
ひとつめは――
「論語」に書かれている言葉の中には、今の時代にはそのまま受け入れられないものもある、ということです。そして、無理に受け入れようとする必要もありません。
ふたつめは――
だからといって、「論語」はもう古いからダメだ、とすぐに切り捨ててしまってはいけない、ということです。
たしかに、孔子は周王朝の時代に生きた人で、周公がつくった古い制度をすばらしいと信じ、それを守ろうと努力しました。
その意味では、孔子は封建制度の中で忠実に生きた、いわば「当時の時代の子ども」と言えます。
だから「論語」の中には、今の私たちから見ると「なんだか変だな」「ちょっと古くさいな」と感じるような記述もたくさんあります。
たとえば――
孔子が日常の立ち居ふるまい(座ったり立ったりする作法)について細かく話していたり、神さまをまつる儀式について厳しく語っていたりする場面です。
また、支配する人(治者)と支配される人(被治者)の関係について語る部分では、現代の私たちなら「本当にそれでいいの?」と疑問を抱くところも少なくありません。
そういう理由で、今の日本では「論語」の存在感がだんだん薄れてきたのも、ある意味ではしかたがないことなのかもしれません。
じゃあ結局、「論語」って、ただの古い時代――周の封建制度を支えた本にすぎないの?と思う人がいるかもしれません。
でも、実はそうじゃないんです。
たとえば、「論語」の中から、昔の時代っぽさ――いわゆる“周の時代の空気”が出ているような言葉を全部取り除いてみたとします。
さらに、今の時代の感覚からして「これはもう古いよね」と思うような表現も思いきって消してみたとしましょう。
それでも――残るものは、ちゃんとあります。
むしろ、私たちは「意外と残るものが多い!」と驚くことになるでしょう。
そして、その残された言葉の中には、「どの時代にも通じる真理(しんり)」があるんです。
時代をこえて、国をこえて、どんな文化にも共通するような、大切な考え方が、しっかりと息づいている。
さらには、「これってちょっと時代遅れかも」と思ってしまうような言葉の“裏側”にも、実はそんな普遍的な真理が、しっかりと根を張っていることに気づくはずです。
「論語」を読んで見えてくる孔子は、ただ単に「昔の封建制度を守っていた人」なんかではありません。
もちろん、周の時代のルールや制度を尊重して生きてはいましたが、だからといって、時の権力者に媚びたり、考えをねじまげたりするような人ではなかったのです。
孔子は、「仁(じん)=思いやりと人間愛」を土台にして、学びを深め、詩や音楽を愛して心の調和を大切にしながら生きていました。
物ごとに対しては、いつも真剣に敬意を持って取り組み、大事な場面では勇気を持って決断し、そして強さと正しさをしっかり守る――そんな生き方を貫いた、まさに「時代をこえて学ばれるべき師(し)」だったのです。
ただ、たまたま彼が生きたのが周代で、周代の服を着て、周代の食べ物を食べ、その時代の問題に悩み、取り組んでいただけ。だからこそ「論語」にも、その時代の色がにじんでいる――それだけのことなんです。
だから私たちは、「論語」は“周代の見た目”に包まれているけど、その中には“いつの時代にも通じる本質的な真理”が詰まっていると考えるべきなのです。
見た目(皮)だけで驚いて中身(果肉)を捨ててしまってはいけません。
かといって、皮ごと全部飲みこんでしまうのも危険です。
大切なのは、「皮をむいて中の果実を味わうこと」。
これこそが「論語」を正しく読む、いちばん大事な姿勢なのです。

「孔子ってどんな人?」――その答えは意外と『論語』の中にある
「論語」をしっかり理解するためには、孔子がどんな人だったかを知ることが、とても大事です。
でも実は、孔子についての伝記――つまり彼の人生を記録した本――は、今でも完全に信頼できるものがあるとは言いがたいのです。
たとえば、漢代の歴史家・司馬遷(しばせん)が書いた『孔子世家(こうしせいか)』という本は、孔子について書かれた伝記の中で最も古いものとして知られています。そして後の時代の伝記作家たちにも大きな影響を与えました。
でもこの伝記は、実は「論語」の言葉を材料として、あとから組み立てて作られたものであり、内容はかなり想像(創作)に近いところもあります。
だから、読むと孔子のイメージがわかりやすくなるようにも思えますが、実際のところは「論語を、違う形で読んでいるだけ」とも言えるかもしれません。
つまり今のところ、「これこそが孔子の本当の伝記だ」と言えるような、決定的な記録はないのです。
そうした詳しい研究は、これからの専門家たちに任せるとして、ここでは「論語を読むうえで最低限これだけは知っておくといい」という、比較的確かな情報だけを、簡単に整理して紹介したいと思います。

年表
- 紀元前552年に誕生、前479年に74歳で没。生まれたのは、現在の中国・山東省にある魯(ろ)という国。
- 父は「叔梁紇(しゅくりょうこつ)」という武人で、武功をあげた身分「士(し)」の人でした。母は「徴在(ちょうざい)」という女性で、父の第三夫人。ふたりの年齢差は約50歳もありました。
- 3歳で父を亡くし、貧しい中で育つ。しかし幼い頃から勉強が大好きで、15歳で本格的に学問を志し、22歳ごろから弟子たちを教えはじめます。
- 若い頃の仕事は、倉庫番や家畜の世話といった、身分の低い職業でした。
- 25歳で母を亡くす。
- 28歳のとき、官制にくわしい「郯子(たんし)」から学びを受ける。
- 31歳で都・周(しゅう)を初めて訪れ、さまざまな文化や思想にふれる。
- 36歳には斉(せい)という国にも旅をして学びを深めた。
- 43歳、斉から故郷の魯に戻り、再び教育に力を注ぐ。
- 52歳で正式に官職につき、中都の長官(宰)となる。その後、農政担当の「司空(しくう)」、司法長官の「大司冦(だいしこう)」に昇進。
- 53歳、斉との外交交渉にも活躍し、成果をあげる。
- 55歳、国内の権力者の横暴を正そうとするが、失敗。
- 56歳、国王が斉の策略におどらされて孔子を遠ざけ、孔子は職を辞して旅に出る。
孔子は各地を旅して、自分の政治の理想を説き続けましたが、どこも受け入れてはくれませんでした。
旅した国と主な出来事は次の通りです:
- 衛(えい) → 陳(ちん/匡の難) → 魯 → 曹(そう) → 宋(そう/桓魋の難) → 鄭(てい) → 陳 → 衛 → 陳 → 蔡(さい) → 葉(よう) → 蔡(陳蔡の難) → 衛
- 69歳、長い旅を終えて故郷・魯に帰る。以後は外政から離れ、教育と学問に専念。
- 74歳で死去。その人生は、波乱と理想に満ちたものでした。
まとめ
「論語」って、なんだか難しそう…と思っていたかもしれません。でも実は、そこに書かれているのは、“ちゃんとした人になろう”とか“人との関係を大切にしよう”という、すごくシンプルでまっすぐな思いなんです。
孔子が生きた時代は、今とはまったく違うように見えるけれど、「どうすれば人と気持ちよく付き合えるか」「正しいことをするにはどうしたらいいか」といった悩みは、今も昔も変わりません。
全部を理解しようとしなくていいんです。ひとことだけでも、「これ、いいな」と思える言葉に出会えたら、それが“論語を読む価値”になります。
これから少しずつ、「論語」の言葉を自分のペースで読んでみませんか?きっと今よりちょっとだけ、自分やまわりを前向きに見られるようになりますよ。
